光市の母子殺害事件で死刑の判決。この事自体は当然過ぎて特に感想は無い。
問題はこれを弁護した弁護士共の極悪な言い分。殺人者を死刑に処す事が「不当」であると言う。冤罪であることが明らかな事件(裁判)のほうには毛ほども協力せず、殺人者であることが明らかな極悪犯罪者の「利益」に肩入れして金儲けを企む者、はこれまた明らかな非国民であり、国賊である。
これらの悪徳弁護士らによると、この殺人者の訴追されるべき罪はそもそも殺人罪では無く傷害致死であると言う。その理由は殺意が無かった、計画性も無かったと言う事になっている。が、この殺人者が仮にそうであったとしても、少なくとも二人の人間を殺害し、そのうちの一人には性的暴行を加えたと言う事実には変わりはない。その結果責任は私も含めた納税者のカネでもって運営されている国家権力によって、強制的に取らされねばならない。もしもそれが駄目だと言うのならば江戸時代のように、仇討ちの制度を導入するしか無い。裁判員制度どころでは無い。
また仮に、この殺人者の言い分を「信用」することにして見よう(裁判所は今回、この言い分は信用出来ないとして死刑判決を出した)。そうして見ても、怨みも無い者を殺しておきながら、あのようなふざけた供述をした事自体が、極刑に値する。
そしてこれらの国賊弁護士どもは、この判決を不服として即日上告することにより、ただでさえ財政逼迫で増税や各種社会的費用の負担が国民に求められているこの非常時に、極悪な殺人者の衣食住その他をその税金から補填し、あわよくば死刑を回避し更なる税金公金の無駄遣いをも助長しているのは明らかである。
税金公金を食いものにし、極悪人を生き長らえさせ、自らもその行為によって高い報酬を獲得しようとするその姿は、他人の年金や健康保険料を着服して私腹を肥やす者同様、まさに国賊そのものだ。
勿論、刑事裁判の弁護人には被告の利益を代弁すると言う役割がある。しかしそれはこのような無際限なものでは無い。そして、弁護士と言えば「正義の味方」と言うイメージが先行するが、一部にはこれらの悪徳弁護士の如く、恥も外聞も無く自ら「極悪人の味方」となる者が大手を振って生存していると言う事を、心しておかなければならない。
- 2008/04/22(火) 18:14:20|
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Marie-Anne Charlotte Corday d'Armont 1768-1793 十代のような若い頃には、自分が三十や四十を過ぎた姿などは想像すら出来ず、「そんな年齢まで生きるくらいなら死んだほうがましだ」と、若さ故の傲慢さで考えることがあるものだ。少なくとも、そんな思いを抱いたことがある人は、今ある程度の年齢に達している人の中には、何人かはいるに違いない。小生も、そんな中の一人であった。そんな、ある種の潔癖な若年的症状も、齢を重ねるに従って、消失してしまう。
今や日々どこかで、誰かが自殺をしている。理由は人それぞれなのだろう。直接的な理由はともあれ、特に若くして死を選ぶ人には、微温的な今のこの国のどことない居心地の悪さがあるように考えられる。贅沢な理由と言ってしまえばそれまでだが。
実はそういう理由で、殺戮がまかり通っている外地へ2年に一度は行かないと生きた心地がしないと言う時期が小生にはあった。それらの土地ではきれいごとや言葉の上での所謂正論など到底通用しない。ましてよそ者の異邦人が何を語ろうとも、聞く耳を持つ人間は居ない。全てが敵か味方かに分別され、日々凄惨な殺し合いが行なわれていた。復讐が復讐を呼び、奪われたものを奪い返そうと言う意志と、確保したものを未来永劫確保し続けようと言う意志が、衝突し合っていた。
結果的にそして知らぬまに、小生はその土地土地のどちらかの勢力に肩入れをして、そのプロパガンダに精を出していた。これでもかと言う程にグロな写真を撮影し、要するに敵対する側の残虐行為として宣伝をする片棒を担いでいたわけだった。そのほとんどは欧米のメディアには売れないものばかりだった(つまりは日本でも)。そして、毎回怪我ひとつせずに帰国し、その事については何も語る事はなかった。かの土地とはまた逆の意味で、この国では小生の話など、聞く耳を持つ者が居なかったからだ。
今現在のこの国の感覚で、暗殺者をたんなるテロリスト、「殺人者」として糾弾する事は容易い。時代背景や、それによって形成される動機を鑑みる事がないならば、デリカシーに欠けるとさえ言えるだろう。
暮れにフランスへ小旅行をしていた時のこと、現地であれこれ便宜をはかってもらっていた人物と食事中の雑談の中で
「歴史上(フランス革命の)で好きな人物は誰?」と尋ねると、
「
Charlotte Corday !」
と勢い込んで答えていた。
ちょうど、日本で「幕末・維新で好きな人物」を聞くのと同じ感覚(ちなみにその方は小生、近藤勇ですが)。歴史上の有名人はほとんどみんな戦争や殺し合いをしていて、現代の感覚で言えばそのほとんどが殺人犯とか、大量殺戮者と言うことになってしまう。
恐怖政治がまかり通っていたフランス革命の最中、シャルロット・コルデーは革命の中枢であったジャコバンクラブの大立物、マラーを暗殺。
ダヴィッドの絵が有名。詳しい政治的背景は不明。一般的には、ジャコバン派と敵対していたジロンド党の支持者であった彼女が、恐怖政治=諸悪の根源はマラーだと狂信した事と言われる。暗殺三日後には当時の例に漏れず僅か三十分の裁判で即死刑、断頭台の露と消えた。享年24歳。
*フランス革命に於いて革命裁判所により死刑執行された実数は、統計により幅があるが3〜4万人とされている。勿論これには革命中の争乱や戦闘による死者数は含まれない。また、革命中のどの期間に於けるものかも定かではない。が、仮にその期間を、1789年7月14日から(バスティーユ牢獄が襲撃された日。革命記念日とされる)1794年7月27日(テルミドールのクーデター。ジャコバン派が失脚し恐怖政治が終焉)迄とすれば、この間ほぼ5年間であり、死刑執行の実数は年間6〜8千人だったと見られる。
他方、日本に於ける近年の自殺者数は、年間3万人を超える。
*勿論、革命の犠牲者数と平時の自殺者数は(人口の相違も含め)単純比較は出来ない。
- 2007/02/07(水) 04:31:10|
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今日、下の方でもちょっと触れた教育基本法改正と、防衛庁を「省」に昇格する法案が採決・可決された。その内容の是非についてはここでは問わない。ただ、これに関してまたぞろ、「昨年の郵政民営化を争点として行なわれた結果獲得した議席を以て、政府与党は『数の論理』でこれを可決した。昨年の総選挙はほとんど郵政民営化だけを争点として確かに国民の審判を仰いで支持を得たとは言えるが、その時の議席数を以て、これらの重要法案を可決した事は如何なものだろうか」と言った論調が、案の定と言うべきか、出て来た。それも今度は、これもまた予測は出来た事だが、自分の憤懣を書きなぐって愚痴を言う今や2ちゃんねる化してメディアとしては没落した個人ブログ等ではなく、新聞、テレビ等の大手マスコミの中で、こうした言説を臆面も無く語る論者が見られた。
この方々は、御自らも大手マスコミ界に身を置いていながら、実は大手マスコミ自身が「郵政解散」とか「郵政選挙」とか喧伝した結果、一般に昨年の総選挙がそのようにイメージされる様になった事をご存知ないのだろうか。
確かに昨年の総選挙では郵政民営化の是非が声高に叫ばれたのだった。しかしこれら有名論客の方々は、その選挙用に国民にも配布されていた与党側の公約集、最近は「マニフェスト」と呼ばれる紙を、読んだ事がないのだろうか。だとしたら、マイナーな個人ブログではなくテレビなどで大々的にオピニオンを出来る論客としては、可成り怠慢な話ではある。或いは、これが怠慢の結果ではなくて、自説に説得力を持たせる為に敢えてこの紙の内容には触れずにオピニオンをやっているとしたら、それは悪質な言論である。
公約集には、郵政民営化以外にも、当の教育基本法改正や防衛庁→省昇格などの事項も、ちゃんんと書かれてあったのだが。それは今でも筆者の手元にあるが、ちゃんと書かれている事を再度確認済みである。
従って、今次法改正に反対するのは良しとして、その根拠を「郵政解散」選挙に求める事は、全くの筋違いであり誤摩化しであるだろう。
そして、公正な選挙で国民の審判を仰ぎ、その結果議席が決まり、その決まった議席を以て各種法案を審議、採決、可決又は否決する事を「数の論理」と銘打って疑義を呈するとするならば、代議員の選挙による間接民主主義そのものを否定する事に、必然的になって行くのだが、どうだろうか。
選挙で票を多く得た者が当選しそうでない者が落選する。当選した者が多く所属する党及び会派が政府を組織する。法案を提出し、審議し、然る後、採決する。選挙と言い、法案採決と言い、ありていに言ってこうした「数の論理」が全てを決定付ける事が、民主主義の基本原理の一つだ(無論それだけとは言わないが)。
この事そのものを「悪」の様にあげつらうのは、勉強不足の一部ブロガーであるのならまだしも、職業論客としては、その資質を問われる事だと思われる。
ある法案、或いは現在の政府の行動に、反対意見をする事はあって良い。反対意見が存在し、その事を自由に主張出来ると言う事も、民主主義の重要な原理の一つであるからだ。が、その論拠や論点を語る時には、必要な資料は精査するくらいの事は、当然しなければならない。その上で、必要なオピニオンを為し、然るべく世論を形成し、反対派が多数を形成すれば、次の選挙でその反対派が多数を獲得し、例えば今日の教育基本法を再度、反対方向に改正し直すことも可能となる。必要な資料をきちんと精査する事を怠り、偽メールに振り回された揚句、自らが痛い目に遭ったと言う出来事を、もう忘れたのだろうか。
なお、教育基本法は「教育の憲法」と呼ばれている。そう呼ばれるにはそれ相応の理由もあり、その事を理解する事には筆者もやぶさかでは無いが、それは飽く迄ものの例えであって、この下の方の記事で既に指摘したように、法理論的には、一般法律である。一般法律は、こちらはものの例えでない、本物の憲法の定めるところによって、過半数の賛成によって議決される。
ある事柄に対する反対派が、多数を形成すれば、憲法の定めるところにより、これらの一般法律を、再び、反対方向に改正する事が可能となる。選挙とは少し違うが、例えば「署名活動」で出来る限りの多数の署名を集める事も、事の性質としては同様の論理による。「数の論理」とは、そうした事柄なのである。
- 2006/12/15(金) 02:19:22|
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ネットを閲覧していると、知らぬ間に意外な処に辿り着いたりする事がある。今日辿り着いた全く見知らぬ人のブログに書いてあった事でちょっと考えさせられた事には。
「教育基本法の改正をやるのは、国民から選ばれた議員が多数決で決めるものであり、よって、民主主義に則ったものである(と文部大臣が語ったと言う)。だけど去年の選挙では教育基本法ではなくて、郵政民営化法案を争点として選挙をしたのだから、その選挙で得た議席で教育基本法の改正をやるのは筋が通らない」
と、言う趣旨の記事をその人が書いている。
なるほどそうかも知れないとも一瞬思ったのだが、良く考えてみるとこの意見の方が筋が通らない事になるのではとも思う。
それは、良く考えれば解る事だが、国会では毎回、いくつもの法案が審議され、可決または否決されているからだ。それは「郵政解散後」の国会でも変わらない。何も選挙後に、郵政民営化法案だけが可決されたわけでは無い。
で、そうなると、郵政民営化法は国民の支持を得たものだから良いが、他の全ての法案は、その選挙で選ばれた議員が可決または否決するのは「民主主義」では無い、と言う事に上記の記事の意見ではなる。しかしそうなると、いちいちの法案ごとに全て、国民の審判を仰ぐ事つまり選挙をいちいちしなければ駄目だ、と言う事になるがどうか。
この方は「教育基本法の様な法律は、準憲法的な重要法であるのだから、現在形式的に多数を得ているだけの政権党が、これを強行採決するのは許されない。そういうのを『全体主義』と呼ぶのだ」との趣旨の事もおっしゃっている。安易な強行採決については同意だが、「全体主義」について、果たしてどれだけ理解しての発表かについては疑問を感じざるを得なかった。この方にとっては教育基本法改正は「憲法改正」に匹敵するほどの重要法改正にあたるのだろうが、その憲法で、一般法律を「準憲法的」なものとしている規定は無いのだ。改正に厳しいハードルを設けているのは、憲法によると憲法自身に対してだけである。それ以外の一般法律は、国会の過半数の採決による事になっている。
参考=日本国憲法 抜粋
第五十六条【定足数・票決】
1 両議院は、各〃その総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。
2 両議員の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。
第九十六条【憲法改正の手続】
1 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。つまりこの方(人)が、ある法案の議事を開き議決をする事を「全体主義」だと主張する為には、現行憲法、特に上記の条文が全体主義的であるから、これを改正する事を合わせて主張すれば、筋は通って来る(無論是非は別として)。特に憲法第五十六条の一項を「各〃その総議員の全員の出席」と変更し、第二項を「出席議員の三分の二以上の賛成でこれを決し」と変更する事を主張すれば良いだろう。これにより、この方の言われる所謂「強行採決」は不可能となり
(それどころか全ての法案の採決が不可能になるでしょうね。たぶん)、尚且つ、一般法律であっても、憲法改正並みの高いハードルが設けられる事にもなり、即ち教育基本法もまさに「準憲法的」な法律となるのである。このように、ある主張を発表する時には、具体的な提案を示さなくてはならない(それが無ければ愚痴と同じ)。自分の頭の中、或いは、個人的なブログの中で、感情的な怒りをぶちまけていても、何も始まらないのである。
それに、去年の選挙でも別に「今次総選挙は郵政民営化(だけ)を問う選挙」とは、小泉総理(当時)も言っていない。郵政民営化が改革の入り口だと言う意味の事を言った筈だ。
結論として、選挙と民主主義と言う言葉(或いはその実態)をリンクさせて、上記に引用したような意見を言うのは、少しお門違い批判に当たるだろう。そう言う事を言っていたら、間接民主主義そのものが駄目だと言う事になるからだ。
インターネットとは便利な道具で、無名の(これには言葉通りの名無しさんが、と言う意味も含まれる)一個人が意見を発信出来る。それに今や、サイト作成技術を持たない個人が、無料で、即座に「ホームページ」を立ち上げられる「ブログ」と言うサービスが普及した。これはこれで良い事だ。自分の意見をそこで述べ、且つ、他の人の意見も読めると言うのも、ネットの特長の一つだから。
但しこの「便利」が容易に「安易」に堕落する事もネットの、これはマイナスな特性で、その際たるものがあの2ちゃんねるだろう。かく言う筆者も、かつてはそれに参加したりしていた者だが、今ではもう投稿どころか、読む気にさえなれない。
「民主主義とは何か」と言ったような、広く且つ深い知識や考察を掘り下げるべき命題について、安易な事を発表すると、まさにネットでは「意外な処に辿り着いた意外な個人」が、つまり誰が見ているか解らないわけであるから、それを書いた人が知らないうちに恥をかく事にもなりかねない。
上記の例で言うと「選挙と民主主義とある法案の採決との関係性」と言う命題を提示した途端、当該法案の是非以前の問題として、実に頓珍漢な結論の提示になってしまっている。
(ついでに指摘するとその方は安倍総理大臣が「私の新たな国づくり」と言った言葉を取り上げて、「日本はあなたの国」ではありませんよ、と言う事も言い、更にはこの言葉をもって、安倍氏が「独裁者」になりたいと言う本音の現れとまで書き連ねている。これなどは上に述べた頓珍漢の更に下を行く単なる言葉の揚げ足取りになってしまっている。くどくど書くのも何だが、「私の」と言う言葉を、どこに掛けるかでこの言葉の意味は違って来る。勿論この場合、「私の、『新しい日本』」と言う言葉の具合になるわけで、日本は私のものだなどと公の席上の最たるものである国会答弁で言ったわけでは、無いのである。日本語を、この様に曲解してはならない。仮にこれが自説に説得力を持たせる為の曲解ではなくて、この方が本気でそう解釈しているとしたら、もう日本語から勉強しなおすべきだろう)
今日何を食べたら美味しかったとか、どこそこに遊びに行ったら楽しかったと言う風に、個人のごく日常を日記風に綴るだけならまた別だが、あるオピニオンをそこでやろうとしている場合には、よくよく考えてからにした方が良さそうだ。
- 2006/11/25(土) 02:08:12|
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についてだが、既にいろいろな場所でその詳しい情報や解説を読む事が出来るので簡略な私見を記す。現在の情勢について多少の雑感を。
1=安倍政権の重要なテーマのひとつは外交面で、特に拉致問題を含む対北朝鮮問題がその最も重要な課題だ。その意味では現在の情勢は、むしろプラスの方向を向いて来ている。
2=金正日政権の除去無くしてその課題の解決は得られない。勿論、北朝鮮現体制が今迄の行いを深く反省し、全ての拉致家族を帰国させ、核及びミサイルを検証可能な形で除去し、その他の国際的犯罪についても然るべき措置を取るならば、その(金体制の除去)必要は無い。しかしながら過去の行為から、その可能性はゼロに近いほど低い。恫喝や瀬戸際外交の揺さぶりに屈して、安易な妥協を計るならば、それは過去と現在の状況が完膚無きまでに示しているように、たんに金正日体制の延命と、更なる情勢の悪化を招くだけに終わる事は今や明々白々と言うものだ。よって、最終目標は金正日体制の除去とならねばならない。そして、金正日体制が恫喝を繰り返せば繰り返すほど、その国際的機運は高まるだろうし、他方いよいよ以て、これを除去しなければ最終的な危機の除去にも至らないと言う事になる。
3=第一義的には今度の国連安保理決議で、国連憲章の第7章42条(軍事的オプションを定めたもの)を目指すべきだろうが、これは今回の決議で示されなくても良い。それは、この決議を受けて北朝鮮が示す事が(我々にとって)織り込み済みの、更なる危機の醸成となって現れ、その時には、更なるオプションとしての42条に基づく決議を引続き呼び込む事になるだろうから。
よって、最初から軍事的オプションを規定する第42条によらずとも、その前段階の41条を適用した決議でも現在のところは充分対応可能だ。それによって取れる行動のひとつに「船舶等の臨検」と言うものがある。この際、万が一、北朝鮮側から臨検実施側に対して「発砲」などあろうものならば、それが実は直ちに、安保理決議によらない軍事的措置を可能ならしめると言う結果になる。
参考=国連憲章
第7章 平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動(抜粋)
第39条
安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する。
第40条
事態の悪化を防ぐため、第39条の規定により勧告をし、又は措置を決定する前に、安全保障理事会は、必要又は望ましいと認める暫定措置に従うように関係当事者に要請することができる。この暫定措置は、関係当事者の権利、請求権又は地位を害するものではない。安全保障理事会は、関係当時者がこの暫定措置に従わなかったときは、そのことに妥当な考慮を払わなければならない。
第41条
安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる措置を使用すべきかを決定することができ、且つ、この措置を適用するように国際連合加盟国に要請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことができる。
第42条
安全保障理事会は、第41条に定める措置では不充分であろうと認め、又は不充分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。 4=これら全てを実施する為に、必要不可欠な事項は、拒否権を持つ安保理常任理事国の賛成票または悪くても棄権である。かねて指摘のある通り、これには特に
中華人民共和国の動きが鍵を握る。しかしことここに至って、この対北朝鮮最大支援国である中国が、上記3の決議案に就いて、拒否権を行使する可能性は圧倒的に低下している。
対北支援の拠点ともなっている中朝国境の都市のある中国共産党幹部は「これまで食料や石油を援助してきたが、それによって得たものは何だったのか。中国の面子をこれほどまでに傷つけられたのだから、これ以上北朝鮮を助けることはせず、中国としてもしかるべき対応をとるべきだ」と語る。
また、既に本年7月のミサイル連続発射の後、中国からの原油パイプラインを通じての原油供給料は中央政府の指示により、既に3分の1に減少されている。
或いは、中国銀行が既に米国の金融制裁に呼応する形で、対北金融制裁を一部実施に踏み切っている事も巷間報道されている通りである。
よって、安保理決議と言う大義名分さえ得られるならば、ことここに至っては、中国としてもより強硬な措置を取らざるを得なくなっている事は確実と言える。
5=現状決議案に慎重な立場を示している常任理事国としてはほかに
ロシアがある。しかしそのロシアも、もし中国が上記のように、北朝鮮への態度を変更する事をこの際余儀無くされるとするならば、一国だけで拒否権を行使する事は事の性質上、出来にくいものとなる。よって、ロシアの態度を決めるのも、やはり中国が鍵となる。
☆☆☆
私個人も引続き、数年前から
与党党員である事を活用して、これらの主張を実現するべく、適切なルートを通じて、意見として発信してゆく。なお、与党党員である事は必ずしも、この政党が過去数十年に行って来た全政策に賛同しての事では勿論無い。では何故党に入ったかと言えば、政権を担当出来そうも無い野党よりも(そして積極的な活動は選挙での投票の時にしか出来ない無党派層でいるよりも)政権与党の内部にいた方が、少しであっても実効性があるとの判断による。要するに、外からの批判や提言よりも、内部的にこれを行った方がベターとの判断だ。例えば狭山事件再審についても同様の見解を持っている。但しこの方はそれでも可成り困難が伴う事は、今迄の経験に照らして確かではあるけれども。
「自民党をぶっこわす」内容は議論があろうが、それが出来たのが外からの攻撃ではなくして、内側からの時としては非情とも言える措置だった事も、こう考える理由のひとつだ。
野党の不甲斐なさに就いてはまた別の機会に。
- 2006/10/13(金) 02:04:05|
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